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「無力“感”は身体には存在しない?」について考えてみた

「無力“感”は身体には存在しない?」について考えてみた

“◯◯感”というフレーズがあります。
キャッチフレーズであったり
イメージフレーズであったり。

でも気づくことがある、
◯◯感は、◯◯そのものとは言い切れない。

例えば、「のどごしの爽快感」なんていう◯◯感。
ビールや清涼飲料水のフレーズにありそうだけれど

そりゃ、暑い夏青空の下、
喉の渇きを癒やす雰囲気とイメージを
創造しながら飲めば
“爽快”な感覚は満たされる。

爽快は評価であって、
ビールが苦手な僕にとって
(大変申し訳ないのですが)
ビールに「のどごしの爽快感」は
覚えることはないだろう。

◯◯感は相対的なものなのだ。

で、ここ数日感じている、自分の中の
“無力”感について考えてみると、

実際、思い通りに進んでいないことが
あるのはあるのだが、
どうもこの“無力”感の水源では
なさそうのなのだ。

なんだか“無力”感なのだ。
ある意味、刑事ドラマの脇役の刑事が
状況証拠と決めつけで
犯人とは違う人に目星を付けてる様な

そう、いろいろな自分にとって今
思い通りに行かないことが
あるとはいうものの、
それらはこの“無力”感の原因では
なかったりする。

“無力”感は、実際に“無力”であることを意味しない。
力がまだ及んでいないことから
自分の力を「自分で評価」して覚える感覚なのだ。

つまり、もしかすると、
今、覚えている“無力感”というのは、
思考の賜物…気のせいかもしれないのだ

そういうと、思考は、
自分の評価を正当化しようと
最近の「力及ばず」のできごとを
集めて論理構成しようとする。

 …「それって屁理屈じゃない?」
  第三者がそれをしていたら、間違いなく
  こうツッ込むであろう論理構成で

冷静に考えれば、
今「力及ばず」であったら、
及ぼすレベルのステップに分解する

あるいは、
今は一旦撤退する…そんな選択をしても良い訳で

ということは、
今の力で敵うことが必ずあると言うこと
今出来ること臥かならずあると言うこと。

とはいえ、
無力“感”を覚えている時は得てして
身体を動かしたくないと考える

でも、でも、でも、

考えれば考えるほど
例の「要ツッコミ」の論理構成に
拍車がかかるだけ…そう思う

だから、こんな時は
ちょっと「身体」、「身体の知性」に
お任せしてみるのはどうだろうか

と、いうことで、

今朝は、これから
何も考えずに
動き(歩き)出してみっかな。

(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2016.12.2 一部改編)
http://ameblo.jp/awakeners/

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