小学校の頃、自分たちの校区
(実家のあたりでは校下って読んでました…方言ですね)
から出てはいけないと決められていました。
幸か不幸か、僕の家は、
小さな川を一つ越えると隣の校区。
当時の先生や大人達には申し訳なかったのですが…
【出ないわけがない!!】
ということで、自分の校区以外の
友達もちらほらと作ったりもしました。
…小学校時代は、ルール違反でしたが、
隣の校区の友達は、中学校に行けば
実際に同じクラスになったりするわけですから
校区という区別は、
物理的には何の線もありません、
心の中、頭の中だけの境界線。
とかく、人は物理的な境界線には
強いモノで、様々なチャレンジをします、
なかには【冒険】という名前をつけて
それに挑むことをかえって望んだりします。
…私達の世界を狭めているのは
物理的な事やモノではなく
心理的、観念的なモノ。
つくづくそう思います。
以前に、
(僕の主観にとって)つまらない競争、意地の張り合いに
巻き込まれそうになったとき
…ある部分はちょっとした負け惜しみで
別の部分では「それほど張り合いたい訳ではない」気持ちで
すでにある基準で評価されるだけで無く
それ以上の存在になれるように、
精進しよう。
な~んて、生意気にも思っていました。
だって、世界は広いんですから。
ある人が力を発揮出来る場所やルールは
仮に今のままでも、どこかにあるはずですし
それをさらに磨いたり広げたりすれば
その場所やルールに出会う可能性はもっと大きくなる。
もし今、問題の渦の中にいたとしたら、
そこを一旦抜け出して、
「問題と感じている」世界の大きさや深さ
色や温度を、展望台に上って見るように
眺めてみるのはどうだろう。
それでも魅力的なら、もう一度
体勢を整えて、その世界に飛び込むもよし
もし、もっと魅力的な、世界が
見つかったとしたら、
そこに問題を見つけたとしても
その問題に対して、体勢を整えて、
その世界に飛び込むのもいいですね。
そして、いつでも展望台に上って
世界の広さを確認する。
そんな「自由さ」もまた、
あなたの心や頭の檻に閉じ込めてはいけないだろう。
そこには、物理的な檻はないんだもの。
って考えると、世界は自分が充分に「自由にできる」
ほどの広さを持っていると思うのですが
どう思いますか?
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2014.9.26 一部改変)
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