自転車に乗る練習をした頃を
思い出して下さい。
自分が自転車に乗れるぞと
確信したのはどんなときだったでしょうか?
大人から
「上手に乗れるねぇ」と言われたときでしょうか?
友達から
「すごいなぁ」と羨ましがられたときでしょうか?
僕は、自分で好きな方向に
自転車を行かせられるようになって
そして、いつでも好きなタイミングで
止まれる感覚を自分の中に掴んだとき。
誰かに認められたから
誰かに羨ましがられたから
ではありません。
仕事を始めて、少しは“社会人”と言える
仕事が出来るようになり始めた頃のことを
思い出して見て下さい。
自分がこれなら社会人として生きて行けそうだぞと
確信したのはどんなときだったでしょうか?
上司から
「最近は成長したな」と言われたときでしょうか?
同僚と話をして
「最近、好調じゃん」とからかわれたときでしょうか?
僕自身は、「成長したなぁ」を言われても
「成長したのかなぁ?」と
半信半疑であったり、
「好調だなぁ」を言われても
ある瞬間は「できそうだ」と思えても
次の瞬間には「まだまだだ」と感じていました。
自分を何かが出来る、あるいは自分がある存在に
成れたことを認めるとき、
自転車のように、次に自分が使いたいときに
自由自在に使える、“自分の中の感覚”が
みつかるとか
成長の感覚のように、他人の評価が自分の評価と
一致し始めるとか
いうように、“自分”が自分を認めることを
許すか許さないかというところが
最終関門のように思えます。
つまり、仮に、自分が
「自転車に乗れる」選手権に参加する
「一人前の社会人オーディション」にエントリー
したとしたら、
その最終判断者である審査委員長は・・・自分。
と言うことになるのかもしれません。
私達は、自分の採点基準に基づいて
自分が「できる」「できない」と
判断しているのは、もうお気づきだと思います。
こんな会話もありますよね
「すごいじゃん」「でも、私なんてまだまだ」
傍から見るとすごいのに・・・
理想が高いんだなぁ。
理想の高いことは、良いことです。
成長の余地が沢山見つかりますから。
しかし、その高さが、プレッシャーになって
成長のスピードを抑えるようであれば
その高さは調整が必要です。
そして、その調整は可能です。
・・・審査委員長の権限で。自分の権限で。
どんなに高い壁も、階段のように
小幅な段差を作れば、最終的には
登って越えることが出来ます。
もしその登りやすさを、演出できるとしたら
あなたには、これから実現できる
高い目標、中くらいの目標、手頃な目標は
どのくらいあるでしょうか?
それを可能にするか否かは、
自分を認める、審査委員長であるあなたの
審査方法次第。
そこにある自分自身の可能性を生かして
今できていることから
認め始めていくのは如何ですか?
Image credit: zlajo / 123RF ストックフォト
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(初出 Facebook NLPフィールドCafe2013.8.7 一部改変)
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